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佐伯氏(さえきし〔豊後佐伯氏の仮名表記については、『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985)236頁「佐伯氏」の項および『日本人名大事典』第3巻(平凡社、1979)37頁「佐伯惟治」の項などに見える通り、他の佐伯氏同様に本来の「さえき」と表記するのが通例だが、一部には大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)7月制定)と同様に「さいき」と表記する例も見られる(『大分歴史事典』(大分放送、1990)354頁「佐伯惟教」の項および355頁「佐伯惟治の乱」の項)。〕)は、平安時代より豊後国佐伯地方(現佐伯市)にて勢力を誇った豪族。豊後大神氏の支族で、鎌倉時代より戦国時代に至るまで、主に大友氏に属した。 == 概要 == 今日に伝わる大神姓諸氏に関する系図は内容の差異が大きく、佐伯氏についても諸説紛々としているが、初代・惟康については、おおむね三重惟家の子であるとしている。『鎮西歴代要略』では鎌倉時代に入ってから緒方惟栄の子孫が佐伯氏を称したとしており、この記述が多く引用されているが、年代的に見て著しく整合性を欠く。 『源平盛衰記』によれば、惟康は従兄弟の臼杵惟隆・緒方惟栄が源氏方についたのに対して、一ノ谷の戦いで菊池高直・原田種直・山鹿秀遠らと共に平氏方に属して戦ったという〔『佐伯市史』101頁〕。鎌倉幕府が成立すると豊後守護として大友氏が入国すると、佐伯氏は大友氏の傘下に入り、承久の乱では佐伯左近将監という者が大友親秀に属して戦い、討死している。 一方で、同族の臼杵氏・戸次氏などが養子を送り込まれて大友氏に取り込まれていく中、佐伯氏は大神姓の血統をつなぎ、建武3年(1336年)3月には北朝方の足利尊氏から南朝方の肝付氏攻めへの軍勢催促状〔『足利一門守護発展史の研究』633頁〕を、貞治4年12月15日(1366年1月26日)には、同じく北朝の後光厳天皇から再び肝付氏討伐の命を、それぞれ直接に下されるなど、独自の勢力を保持し続けていた。 そのため、戦国時代に入ると集権化を図る大友氏と衝突し、第10代惟治は謀叛の疑いをかけられて討たれ、第12代惟教は一時伊予国へと亡命した。第14代惟定の時、文禄の役の際の失態で大友氏が改易されると、豊後を去って豊臣秀保の客将となり、秀保没後はその家臣藤堂高虎に仕えて伊予国に移り、以後藤堂氏の家臣として伊勢国への転封にも従い、津藩士として明治に至った。 また伊予白木城主であった惟定の兄・惟照はそのまま同地に残り、緒方蔵人と名乗って緒方氏を称し〔『児島惟謙』3頁〕、弟の惟寛の系統は備中国足守藩主木下氏に仕えた。惟寛の子孫が緒方洪庵(惟章)である〔『緒方洪庵伝』第二版増補版、4頁〕。その他に御手洗氏などの庶家もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐伯氏 (豊後国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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